宮川香山

 

1       来歴       DSC_0503k-600.jpg
2   名品     
3   製作年代が確認できる作品    
4  

初期時代

   
5   中期時代    
6   後期時代    
7   器銘    
8   2~4代香山    

はじめに

 宮川香山(眞葛香山) 天保13年 (1842)1月京都で出生。京都陶家樂長造の四男として生まれ、本名虎之助という。

 万延元年、香山18歳の時、父・兄と続けて亡くなった。それは明治が始まる8年前で、香山が家業である京焼の陶家を相続した。その後、迂曲を経て、明治3年に横浜へ移住した。その地で、輸出陶器の窯を開いた。開業後、高浮彫と称する輸出向陶器を創り出し、欧米で人気を博した。明治10年代中頃、高浮彫陶器の需要に陰った。香山は明治15年頃から欧米の清朝陶磁趣好に合わせ、和漢陶磁の研究が始めた。明治20年代中頃から、宮川香山は美術陶磁界をリードしていた。明治28年を含め明治29年頃までに、眞葛釉下彩スタイルが確立した。明治29年、帝室技芸員に任命された。明治30年、緑綬褒賞章を下賜された。それ以降、名実ともに明治美術陶磁の頂点に立った。明治の全期間、香山は明治陶磁界の第一線に立ち、産業陶磁から美術陶磁への変遷を体現している。宮川香山の作陶は伝統的和文様を基本的な軸にし、そのスタイルは大正5年に亡くなるまで、変わることがなかった。京の眞葛窯を継いだのではなく、横浜の眞葛窯の初代として、一生を終えた。

 

帝室技芸員の任務を負った宮川香山(任命は明治29年6月30日)

 帝室技芸員宮川香山は、皇室に任命された工芸作家である。その製作した工芸作品(陶磁器)を通じて、国内外に対して日本文化を高める任務を背負うた。具体的に例えると、明治29年帝室技芸員となった香山は明治33年パリ万博に際し、帝室技芸員として出品作品製作の御下命を受けた。それは菊と桐文の壺であった。この件については岡本隆志氏が三の丸尚三館報第17号「宮川香山の1900年パリ万博」にくわしく論述されている。一読されたい。

 

宮川香山と展覧会

 横浜進出以来、香山は博覧会に作品出品し続けた。明治9年フィラデルフィア万博から大正時代まで、ほぼ毎年、国内外の重要な展覧会に出品している。そのほとんどで出品作品を入賞させている。長男半山の名等家族名義でも出品している。香山は明治14年第2回内博博覧会の美術館前に噴水を作り、世間を驚かせ、浮世絵までになった。香山の作陶姿勢は、常に時代の変化に合わせた。展覧会出品作品に際しても、時代の流れを読み、大胆かつ奇抜、又は、大型の作品をもって展覧会目玉作品とすることが多い。現代で言えば天才経営者であり、名プロデューサーである。

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