3代清風与平来歴都作品の変移
(1)清風与平略年譜及び作品様式区概表
①清風与平略年譜
嘉永4年 | (1851年) | 2月10日生、出生地播磨国大塩村。岡田良平の次男、本名、平橘。 | |||
文久3年 | (1863年) | 南画家田能村直入に入門。 | |||
慶応元年 | (1865年) | 病気により、帰郷する。 | |||
慶応 2年 | (1866年) | 清風家の養子に入る。 | |||
明治 5年 | (1872年) | 陶芸家として独立。二代清風与平の妹くまと結婚。 | |||
明治 6年 | (1873年) | ウィーン万国博に出品、受賞。 | |||
明治11年 | (1878年) | 二代目清風が病没、三代目清風与平を継ぐ。 | |||
明治12年 | (1879年) | 元アメリカ大統領に洋食器を制作する。 | |||
明治23年 | (1890年) | 第3回内国勧業博に出品し、一等賞を受賞。 | |||
明治26年 | (1893年) | シカゴ・コロンブス世界博に出品。 | |||
帝室技芸員に任命される。 | |||||
明治28年 | (1895年) | 第4回内国勧業博「青華松鶴花瓶」を出品して名誉賞銀牌を受賞。 | |||
綠綬褒章を受ける。 | |||||
明治33年 | (1900年) | パリ万国博にご下命制作で出品。 | |||
明治38年 | (1905年) | 日本美術協会美術展に「旭彩山桜花瓶」を出品し、宮内省買上。 | |||
明治40年 | (1907年) | 明治天皇に香炉を献上。 | |||
大正元年 | (1913年) | 帝室博物館に飛青磁大花瓶献贈。 | |||
大正3年 | (1914年) | 7月15日、死去する。 | |||

(2)清風与平作品の変移
①清風与平作品(明治陶芸作品)の時代背景
清風与平が歩んだ足跡とは、明治の陶磁器が産業品から美術工芸作品へたどる足跡である。清風与平の来歴と作品の変移は明治という近代国家へのスタートと共に歩んできた。
明治政府の国是たる富国強兵は、欧米列強に伍すべく殖産興業を進めることを必要とした。そのための表舞台は海外博覧会であり、そこで日本の産業品を貿易品として展示する。それに合わせて欧米諸国から近代技術の導入する場所であった。海外博覧会と陶磁器とのつながりは、明治の始めの日本にとって、陶磁器(工芸品)が数少ない手工業品(産業品)であったことによる。重要輸出品であった陶磁器は殖産興業品(産業品)であり、明治の始めより貿易のために博覧会で大々的に飾られ、売られていた。
明治6年ウィーン万国博覧会の際に「美術」という訳語が生まれたという。明治20年代、帝国博物館設置・東京美術学校開設等でみられるように、美術という言葉が国家体制に組み込まれ、陶磁器も美術工芸という名のもとに、そこに含まれた。その当時、欧米では陶磁を美術品のカテゴリーの中に入れていなかった。日本政府は陶磁器(工芸品)は西洋と違って固有の日本文化として主張した。明治半ば、海外・内国博覧会での陶磁器は日本の文化(美術工芸)としても示され、産業品から美術工芸品へと両方の顔を持った。
清風与平は明治6年ウィーン万博に出品し、それ以来、海外博覧会とそれの延長線上にある国内博覧会にも出品し続けた。清風与平の博覧会参加回数は、国内外あわせ、大正3年の清風与平死去まで42年間で60回余りに及んだ。ちなみにウィーン万博は明治政府が始めて参加した海外万国博である。
明治23年、清風与平は第3回内国博で美術工芸として一等賞に耀き、その陶芸作品・作風が美術陶芸として明治の新しい流れとして認められた。
明治26年、明治政府はシカゴ万博において陶磁器(工芸品)を美術館に展示し、全世界に対し、明治の陶磁器が美術工芸品であることを主張した。清風与平は政府の依頼によりシカゴ万博に淡黄手白磁等を出品した。同年清風与平は、第2回目の帝室技芸員任命選定で、帝室技芸員に任命されている。帝室技芸員制度は、明治23年より始まった。その第1回目(明治23年)で任命された工芸家は、加納夏雄・柴田是真等である。第3回目(明治29年)では、宮川香山・濤川惣助・並河清之・海野勝眠等である。この人選からして、その時代の第1級工芸家が任命されている。そこでは、「邦ノ美術ヲ奨励スル為古ヲ微シ今ヲ稽ヘ工芸技術ヲ練磨シ後進ヲ誘導スルヲ旨トフヘシ」と規定されている。この制度は、日本の美術工芸を奨励するために設けられた。なお、その当時、今の人間国宝の制度はない。帝室技芸員とは、大日本帝国皇室認定美術作家と言いかえれば、解りやすい。
その当時、帝室技芸員の時代的役割は、欧米列強に対抗し、日本の国威を示す文化的役割も背負っていた。明治33年、清風与平は帝室技芸員としてパリ万国博覧会作品の御用を受け出品し、日本固有の文化を伝える役割をはたした。
明治38年、清風与平は国内博覧会で「桜花白抜き浮文釉下彩壺」を出品した。この作品は清風与平を超え、明治陶磁器を代表する陶芸作品である。この作品の表現技法たる釉下彩を日本で広めたのは、明治6年ウィーン万国博の日本政府顧問として大活躍したゴットフリード・ワグネルであった。明治の初めワグネルがこの技法を佐賀の有田で指導してから35年余りの年月を経て、清風与平はその技法でもって明治の美を輝かせた。明治の後半、清風与平のみならず、宮川香山・加藤友太郎等多くの陶芸家が釉下彩技法を使って博覧会等で競い合った。
明治時代、殖産興業の国策のもとに多くの国外・国内展覧会が開催された。当初、そこでは産業品として陶磁器が展示された。明治後半からそれが美術工芸(陶芸)品として美術のジャンルに含まれることが社会認知された。明治の陶磁器に対する社会の認識の変化に関係なく、清風与平は、その初めから明治の終わりまで国内外の博覧会に出品した。清風与平は近代における博覧会全盛期に、その表舞台において近代工芸(陶磁器)の第一人者としての役割を果たした。

②独立(明治5年)頃から明治20年頃までの作品
清風与平の作品変遷は一般事例的な個人の技術取得・修業のプロセスと異なる。清水焼において名高い清風家で京焼を修練し、独立と同時に新技法を開発し続け、次々に博覧会で入賞している。清風与平は、開業してから10年足らずの3代清風与平襲名(明治11年)直後に元米国大統領宴会用食器の御用を受けている。これらのことからも清風与平の技術レベルが独立当初から高度なことが明らかである。
明治5年、独立した際、清山として称していた。明治11年、2代清風与平死去にともなう3代襲名直後も、その呼称を使っていた。独立早々の明治5年、清風与平は自己の大看板たる淡黄手白磁を開発している。元大統領用に製作した写真25・26作品が存在することにより、明治10年前後の伝世作品はその器銘・共箱書きから確認できる。清風与平は独立当初から博覧会入賞を積みあげていく。独立から明治10年代の清風与平博覧会出品作品は確認できていないが、その伝世作品から見れば、幕末の京焼の影響を感じられ、清風与平のイメージたる近代的雅趣さと異なる。明治10年代後半の与平伝世作品は、それほど多く確認できていない。初期から前期時代作品への流れを正確に把握しきれていない。伝世作品でなく、博覧会出品入賞記録も重要である。それから見れば固定清風与平イメージの白磁・青磁だけでなく、清風与平は独立当初から多彩な有色釉を作っていた。明治12年銘作品頃までの数少ない伝世品から見れば、明治20年代中頃以降の与平スタイル作品と異なる。それは清風与平の初期時代である。初期時代の下限は、作陶のスタートから独立を経て、明治10年代中頃遅くても同20年を超えない範囲が与平初期時代と言える。
③明治20年代の作品
明治20年紀年銘作品が伝世していることにより、明治20年代前半作品の流れの手がかりを得た。明治20年紀年銘作品の箱書き「清風与平」を追うことにより、清風与平の代表的器銘「清凬」が明治20年頃から使われ始めたことが解明できる。
清風与平は帝室技芸員になる明治20年代は陶磁器の2大国内展博たる内国博・美術協会展のいずれのトップ賞を獲得し、それを維持し続けた。明治20年代の上両展博の輝かしい入賞歴は下記資料抜粋のとおりである。
(資料 入賞歴表参照) | ||||||
明治21年 | 美術協会展 | 銅牌(但し、金・銀牌なし) | 珊瑚磁青華群仙画水瓶 | |||
明治22年 | 美術協会展 | 銀牌(但し、金牌なし) | 飛青磁銀罩香炉 | |||
明治23年 | 第3回内国博 | 一等妙技賞 | 浅絳色画水鉢 | |||
明治24年 | 美術協会展 | 銀牌(但し、金牌なし) | 白磁彫紋中蕪形花瓶・青華黄色龍紋花瓶 | |||
明治25年 | 美術協会展 | 銀牌(但し、金牌なし) | 桜釉牡丹花式菓子鉢・彩磁牡丹画鉢 | |||
明治26年 | 美術協会展 | 銀牌(但し、金牌なし) | 淡紅釉浮牡丹花瓶 | |||
明治28年 | 第4回内国博名誉銀牌 | 青華松鶴文花瓶 ・白磁桜花文花瓶 | ||||
㊟明治21年は金・銀牌がなく、それ以降の年も金牌はないので、いずれの年も清風与平は陶磁部門でトップ賞を受賞している。但し美術協会展においては、竹本隼太・宮川香山との同順位牌の場合が多い。 |
清風与平の帝室技芸員に任命される決定打は、第3回内国博一等妙技賞である。その受賞作「浅絳色画水鉢」は不明である。しかし、明治25年前後製作と考察できる鯉文色絵杯洗で確認できる。それからすれば、明治23年第3回内国博での、清風与平作品はスタイルは完成している。清風与平はその完成したいわゆる色絵を百花錦と称した。明治20年代前半までの百花錦作品は、釉下彩作品でなく、色絵作品である。清風与平はそれでもって、国内最高展覧会である内国博でトップ賞、しかも時代に相応し、美術部門での頂点に立った。そこに清風与平が出品した作品は前述色絵水鉢だけでなく白磁・赤地作品等である。それは明治時代前半をリードした明治金襴手と異なる。その当時に生まれた美術思想・世界の列強と争う国家体制と清風作品が一致し、国家は与平作品を美術工芸品と認定した。明治23年内国博でもって、明治の陶磁器は美術工芸品として確立した。その頂点が清風与平である。
帝室技芸員任命年の明治26年に開幕したシカゴ万博で清風与平は牡丹浮文淡黄手白磁壺を出品した。明治時代前半はジャポニズムで言うところの薩摩金襴手の全盛時代であった。この出品白磁壺は薩摩金襴手終幕を確認できる作品と言われる。
明治28年第4回内国博でもって清風与平は松鶴文釉下彩瓶(図版11別表12再掲載)を出品し名誉銀牌を受けた。この作品は清風与平が釉下彩技法を確立したことを示す作品である。
清風与平は明治20年代にはいり、同28年頃までに与平陶芸スタイルを完成させたと考察できる。その時代が与平前期時代と言える。しかし、清風与平の作品変遷からすれば、それらは、与平の技術・技巧の高度性・文様のスタイルを示したにすぎない。本論でいう釉下彩に基づく清風の美は始まったばかりである。そのスタート(後期)は上松鶴文釉下彩瓶で表現された釉下彩ぼかし作品が生まれたと考察できる明治25年頃である。与平の美の世界は、帝室技芸員任命以降にその頂点を極めた。
④明治30年頃から死去までの作品
明治33年パリ万国博覧会において、清風与平は帝室技芸員として御用を受け、出品した。その他に多色釉下彩作品も出品した。
その中の白磁は淡黄色白磁に淡紅色が含むように浮き出していると清風与平はいった。
明治33年パリ万国博では、清風与平が釉下彩でもって与平スタイルを演出していることが確認できる。それは明治20年代中頃まで与平作品と異なる世界である。そのパリ万国博において、明治陶磁器は、アール・ヌーヴォーと遭遇し、衝撃を受けた。それは大正へと続く、新しい近代陶磁器の流れとなった。清風与平は、自己の作品にそれをとり入れた傾向が見られない。アール・ヌーヴォー風の明治陶磁器の多くは、自己主体表現でなく、大柄な図案で終わっている。その世界は清風与平の言う妙趣と異なる世界であることは間違いない。清風与平は大正という時代にも参加していない。なお、現在の近代陶芸研究においてアール・ヌーヴォーと釉下彩をセットにして論じていることがまま見られる。これはイージーすぎる論と思える。
明治33年パリ万国博以降、清風与平は展覧会への作品出品が一旦鈍っている。しかし明治38年以降再び、展覧会に継続的に出品している。明治38年、桜文白抜き浮文釉下彩作品を発表した。淡紅系調黄手白磁を有色化したものである。明治の陶磁器を代表する作品となった。その作品は春のかすみが漂い、それが清風与平が求め続けていた妙趣であろう。この時点でもって与平陶芸美が頂点に到達したといえる。
晩年、清風与平は病気となり作品制作がままならなかったと伝えられている。しかし、明治を過ぎ死去するまでの大正1・2・3年と展覧会に出品を続けた。
清風与平作品を代表する作品には、清風与平が世俗的に頂点にのぼりつめた明治20年代には清風与平の作品スタイルは完成の域に達した。それから以降、それまでと異なる作風・技術を展開するのではなく、それまでの技術・技巧の完成度を高め、清風陶芸美を極めた。そこで代表作品を残した。これらのことから、松鶴文釉下彩染付花瓶等、釉下彩技法の確立が確認しうる明治25年頃から死去までを後期時代といえる。なお、大正時代作品は器銘に変化している作品もあり、それらは清風与平末期作品といえる。ただし、その作風に変化はない。
(3)むすび
①作品から見た来歴及び変遷
嘉永4年(1851)清風与平は、播磨国印南郡(現在の兵庫県)の地で、岡田良平の次男として生まれ、名を平橘という。大正3年7月15日(1914)に死去した。没年63歳である。その出生は、明治が始まる18年前であった。12歳の時、画家田能村直入に絵を学ぶべく入門したが、病気となり、断念し帰郷した。その翌年、慶応2年(1866)、陶芸を家業としている清風家の養子に入った。
明治5年(1872)、二代清風清風与平に許しを得て製陶家として独立し、清山と号を称した。しかし、二代清風清風与平が病気をわずらい、明治11年に没したため、清風家を継ぎ、同年に三代清風清風与平を襲名した。
清風与平襲名後の作風は旧来の京焼傾向であり、明治10年代中頃、遅くて同10年代末までに初期時代は閉じる。
明治20年代民展覧において、清風与平作品はトップ賞をとり続けた。明治23年第3回内国博で美術部分で一等賞を受けた。清風与平は陶芸家の第一人者として認知された。明治26年、清風与平は、第2回目の帝室技芸員任命選定で任命されている。明治28年第4回内国博覧会では、審査員なるとともに作品もトップ賞を得た。更に同年、清風与平は縁綬褒章を受けている。帝室技芸員任命・受章は明治のすべての陶芸家の中で初めてである。清風与平は明治陶芸界において、40才半ばの若さで、しかも修業から20年余りで名実ともに陶芸家として頂点に達し、社会的に栄誉栄達をきわめた。
明治20年代中頃には清風与平スタイルが確立された。そかし、清風与平が作り出す明治の美は扉が開かれたばかりである。明治25年頃に与平前期時代から後期へと移行したと考察する。
明治33年パリ万国博覧会で日本文化を伝える作品の御用を受け、そこに出品し、帝国技芸員の役割を果たした。そこでは、清風与平の大看板たる淡黄手白磁を新展開させた。清風与平は、パリ万博(明治33年)頃から展覧会出品が鈍っているが、明治38年明治陶磁史上に輝く、桜花文白抜き浮文釉下彩壺を発表し、皇室に買上げられた。大正元年に大正天皇即位記念でその作品を帝国博物館に献上している。
②清風与平は製陶家か、それとも陶芸家?
現代的視点からいえば、清風与平は美術作家ではない。そのことから、従来の近代的磁器与解説・論文で、清風与平を含めた明治の陶工・陶業者に対して製陶家という用語が用いられている。この用語(製陶家の使用)に、明治陶磁器を美術品とみなさず、近代美術史に取り込みすることを躊躇していると感じる。
清風与平は明治6年から展覧会に入賞を続けて、さらに、明治20年代の主な展覧会を席巻した。その時代の展覧会では、多くの陶芸家が、技術・技巧を社会的オープンスタイルで競った。明治20年代に至り陶磁器は食器や装飾品でなく、陶芸品は美術工芸の対象となり、博覧会・展覧会では美術部門でも飾られ、美術工芸品となった。そこでは陶磁器は明治の始まりから続いた殖産興業の産業品としての役割と切りはなされた。そこは近代であり、時代が陶芸を美術として認識した。清風与平は自己に主体的美意識(近代的美意識)があったかはさだかではないが、自己の作品を美術品といい、近代国家体制が組み込んだ美術工芸の世界にいた。清風与平は明治国家が求めた、陶磁器の社会的位置の移行―輸出産業品から美術工芸品への移行―の役割を担えた美術を扱う者(帝国技芸員)であり、そこで明治(近代)陶磁器の世界を展開した。清風与平は釉下彩という欧米の陶磁技法でもって、「余輩の如き美術品を製作する」と自己の意識のもとに陶芸作品を博覧会等で発表した。清風与平は日本的美意識のもとに新しい時代(明治)に新しい技術(釉下彩)でもって、新しい社会思想(美術工芸思想)のもとに作品を個人の名(清風与平)で新しい舞台(博覧会)に陶芸作品(什器・床の飾り等装飾品でない)として展示した。歴史の視点から見れば、それが近代陶磁のあけぼの時代である。清風与平はそれを象徴する具現者の頂点にいた。清風与平個人の意思、日々努力とは関係なしに、国家が求めた新しい時代の陶芸家という役割を担った。その肩書は帝室技芸員である。清風与平は、その役割をはたし、その明治陶芸時代を駆け抜け、次の大正時代に受け継ぐ光を輝かせた。その死去は大正3年7月15日、その年も東京大正博覧会に清風与平作品が出品され、銀牌を受けている。